(1) 掩体壕
 宇佐海軍航空隊周辺を歩くと、掩体壕だけでなく、当時の航空隊の関連施設、掩体壕からの誘導路、戦闘によってできた銃弾の跡や爆弾によってできた池等を見ることが出来ます。少し、足をのばせば豊前海には訓練用の標的の跡、長洲には海軍用桟橋、松ヤニをとった松の木、戦死した方々の共同墓地でもある慰靈塔等々戦争の跡をみることができます。1では航空隊周辺にある戦跡を紹介します。
 掩体壕を含め車で見て回っても2〜3時間程度です。機会があれば是非足を運んで下さい。
 ただし、城井1号掩体壕のように整備されている場所はほとんど無いので、駐車場所等には注意してください。

≪宇佐航空隊の施設など≫


 らっかさん(パラシュート)などの、航空隊で使われる兵器の整備が おこなわれた建物(らしい)。
 戦争遺産として残すため宇佐市が国から買い取ることにしました。この他、エンジン調整室、電信室も同時に購入するそうです(H24.5.12の平和ウォークにて)。



 左の建物のアップした画像です。
 機銃掃射の跡が、驚くほどたくさん残っています。  

 この東側から航空隊に続く鉄道の引き込み線がありました。柳ヶ浦高校前に続く現在の市道一部が、当時の線路でした。
 (柳ヶ浦駅の西側にある踏切です)


飛行場電信室のあととのことです。航空隊の敷地に隣接した場所にあります。画像右端にはレンガの建物が小さく写っています。
 受信用の鉄塔は別の場所に建っていたそうです。


 同左の近景です。



 上の飛行場電信室から遠くない場所にあります。家内が5月22日の平和ウォークで見てきたので早速、見てきました。
 無線受信所の跡でこの上には受信塔が立っていたそうです。





 同左の上に登ってみました。アミの中を覗き込むと結構深いことがわかります。

 無線受信室の裏に回ってみるとコンクリート製の建造物がありました。おそらく航空隊に関係する施設の跡と思うのですが・・・




 この道は、飛行機が掩体壕から 滑走路へ出ていく時の道(誘導路)で、その跡がそのまま道になったもの。今は、その中央部に桜の木が植えられています。
 ここを行き来した「一式陸上攻撃機」の両輪の幅(約6メートル)とほぼ同じです。

 宇佐航空隊の基地(敷地)のまわりには、このような水路が張りめぐらされていました。今も農業用排水路として使用されています。




 エンジン調整室。この建物にも機銃掃射のあとがあります。掩体壕を含む航空隊の建物の跡の多くは民間の方が使用されている場所が多く見られます。


 この大きな穴は、米軍機から落とされた爆弾によりできたもので、水がたまることから爆弾池と呼ばれています。
 戦争が終わって間もない頃は、このような穴がたくさんありましたが、飛行場を水田に戻すために、次々と埋められていきました。この穴だけは、平和を願う所有者の強い思いから、今も残されています。
※ 水田の中にあるため、爆弾池は探しにくいですが、白い標柱が目印になります。





 宇佐航空隊から出撃し、戦死した特攻隊の兵士と 宇佐航空隊で亡くなった人をまつっている石碑で戦後この位置に移されました。
 この石碑は、柳ヶ浦高校の正門の前にあり毎年4月16日に慰霊祭が行われます。
     神風特攻隊として出撃し、戦死した飛行予備学生出身の士官(将校)74名の氏名、年齢、出身地が刻まれています。宇佐海軍航空隊から出撃、戦死された方は154名で全ての方の名簿は城井1号掩体壕の敷地内に設置されています。
 ※ 阿川弘之氏の小説『雲の墓標』に登場する「藤井大尉」のモデルとなった 「藤井真治大尉」の名前もあります。




≪柳ヶ浦小学校にて≫

説明には
 「昭和二十年(一九四五年)、柳ヶ浦を中心に大きな空しゅうがありました。このコンクリートかべにはアメリカのせんとう機の銃弾のあとがたくさん残っています。」と書かれています。





銃弾の跡のアップ。

昭和20年4月21日、空襲の爆風で折れて飛ばされた石碑(赤丸内が飛ばされた部分)。

別のページにも掲載しましたが、航空隊の隊門。いまでも宇佐平野に埋まったままの隊門もあるそうです。今のセブンイレブンのあたりに隊門があったそうです。
 その後、2009年1月に掘りあげられ2つの隊門が柳ヶ浦小学校の敷地内に置かれています。
 昔隊門があった場所の住所は宇佐市江須賀字「正門」です
。 


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