(1) 掩体壕

< 宇佐の主な空襲 ・昭和20年>

 3月18日    宇佐航空隊が、グラマンなどの米軍機から 初めて攻撃を受ける。  
 桜花 をつるし、出撃体勢にあった 一式陸上攻撃機 が炎上。 約20機が、使用不可能となる。

 4月21日    (住民の死者多数・軍関係の死者 約320名)
 三州国民学校(現・柳ヶ浦小学校)、柳ヶ浦高等女学校(現・ 柳ヶ浦高校)等が炎上。
 航空隊は壊滅的な被害。
 江須賀地区にある蓮光寺周辺は、ひどく爆撃されたが、奇跡的に 門だけが残る。
   ( 「生き残り門」 と呼ばれるようになる。)

 8月8日  米軍機による空襲で、航空隊周辺の畑田地区と江須賀地区が大きな被害を受ける。
  ※ この他に、4/26、5/7、5/8、5/10、5/14 にも 攻撃を受けています。

≪宇佐航空隊の航空写真≫ (アメリカ軍撮影によるもの/昭和23年)



多くの爆弾によって出来た穴の跡が確認出来ます

<激しくなった空襲>

 航空母艦から飛び立ったグラマン戦闘機などは十数機の編隊をつくり、小爆弾と機銃掃射で次々と航空隊をねらってきました。当然、民家や歩いている人もねらわれます。グォーンという音が聞こえると、けたたましいサイレンの音が危険を知らせます。すると、とにかく必死で近くの防空壕に飛びこみました。防空壕がないときは、近くの田んぼのとしゃく (わらを積み上げたもの)の陰や、溝の中にかくれました。

 激しい地響きを立てて 次々に落とされる爆弾の雨。爆発とそれに伴っ て立ち上る炎や黒煙。全く生きた心地はしませんでした。爆弾の後には、 体育館がすっぽり入りそうな大きな池ほどの穴をはじめ、大小百ほどの 穴ができていました。その爆弾の威力がどれほど大きかったことか。

 よくもまあ生きていたなあと思います。 

                          舟木淳一さん手記 「働く小国民」より
  
 宇佐海軍航空隊に対する空襲で多数の民間人が犠牲となり、その人数は500名以上と考えられています。現在、犠牲者の氏名が分かっているのは130名ほどと少なく、時間と共にその特定が困難となりつつあります。
 現在、地元の有志の方々により地道に情報収集をされています。いずれ、城井掩体壕の敷地内にその名前を刻み、特攻隊として亡くなった方々と同様に石碑を建てるそうです。 

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