宇佐に航空隊が出来たのは 昭和14年10月。 日本海軍は、「宇佐平野に航空隊を造る」という計画を 十数年前から持っていて、準備を進めていました。 昭和13年になって、江須賀から、乙女、荒木、畑田、川部に至る広い水田地帯に航空隊を作る作業が始まり、見渡す限りの広い土地が 飛行場用地として埋め立てられていきました。何軒かの家も取り壊されました。 |
宇佐航空隊の規模 東西 1.5 km 南北 1.3 km 面積 約184 ha |
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当時の航空隊の門柱 |
スーパーの敷地内から1992年に掘り出された門柱。柳ヶ浦小学校に有ります |
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掘り出されたこの位置の南側駐車場内近くにもう一つの隊門が埋まっているそうです。 いずれ、ここに新しい道路が出来る時に掘り出すとのことでした。 ※2009年1月に掘り出され、同じく柳ヶ浦小学校に置かれています。 |
柳ヶ浦小学校にある隊門の前で説明を受けています。(2006.5.14 平和ウォーク) |
手前が2009年1月に掘り出された隊門です。 |
宇佐航空隊の正門は、茶色のタイル張りの四角い柱。 敷地内には、木造2階建ての役所や 兵隊さんの泊まる兵舎、 整備工場や病院、そして体育館のような形をした格納庫(飛行機を入れておく建物)が6つ作られていました。 滑走路は、はじめ 幅が30メートル 、長さが1150メートルでしたが、後に 幅が80メートル、長さが1800メートルに拡げられたそうです。 宇佐航空隊は、茨城県の霞ヶ浦などの航空隊で ひととおりの飛行訓練を終えた兵士たちが、実際に戦争に使う飛行機で 訓練の総仕上げをするところでした。そのため、全国各地から 若い兵隊が集まり、宇佐航空隊などで訓練した人たちが真珠湾攻撃に参加しました。 |
< 宇佐に航空隊が作られた理由 > 「瀬戸内型の穏やかな気候で、風向きが飛行機の離着陸に適していたこと」、「周防灘や国東沖、別府湾、豊後水道を利用しての訓練空域に恵まれていたこと」、「物資輸送のための駅が近いこと」、「近くに、国家の保護を受けた格式の高い神社である 宇佐神宮があり、士気(兵士の戦おうという気持ち)を高めることができたこと」、「広い田園地帯で地価が安かったこと」などがあげられます。 |
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昭和16年に 太平洋戦争が始まり、昭和20年 沖縄が戦場になると、それまで訓練するだけの飛行場だった「宇佐航空隊」は、特攻隊の基地となりました。アメリカ軍を日本本土に上陸させないために、沖縄近海に集まっていた敵の飛行機や船を、特攻機によって撃破しようとしたのです。 特攻隊員の任務である「命がけで日本本土上陸を阻止すること」は、同時に家族や故郷を守ることでもありました。そこで、沖縄に行き着くことができるかどうか わからないような練習機でさえも、「体当たり攻撃」をするために、沖縄の戦場に飛び立っていったのです。 一度飛び立ったら、二度と生きて帰ることはできなかったので、飛行機の燃料も 始めから片道分だけで、帰りの分は積んでいきませんでした。 宇佐航空隊には、一番多い時で150 機の特攻機が集められたそうです。特攻隊の兵隊さんたちは、二十歳前後の若者ばかりでした。 |
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< 特攻志願について > 特攻隊の隊員になれば 生きて帰ることができないので、命令によって強制的にその隊員を選ぶことは出来ません。そこで、志願(自分から進んで願い出ること)によって隊員を募集しました。 しかし「特攻隊員になり たい」という人は少なく、結局は 志願せざるを得ない状況に追い込まれ、 全員が特攻志願させられてしまったそうです。彼らには、選択肢はあり ませんでした。 < 特攻隊員になった飛行兵の話 > 宇佐空司令より特攻編成の命令が伝達されるや、皆覚悟はしていたものの、一瞬青ざめたような顔をしていた。私もそうであったのだろう。 九九艦爆での特攻である。昨年までは実戦機として働いてきた機ではあるが、今では訓練機である。片道攻撃の他はない。しかしその一瞬が過ぎると、皆元気に元の姿に返り「いよいよ俺たちも 一人前として扱ってくれたのだ、必ず敵空母を道づれにして 自爆をしてやるぞ。」 と皆張り切って 飛行機の整備に取りかかる。 その夜は 全員で酒盛りが搭乗員室で始まる。中には遺品整理と称して身の回りのものをかたづけ出した者もいる。すると酒の好きなやつが「明日出撃するのではあるまいし、今晩は大いに飲もう。」という事で、また皆で飲み始め 夜半まで飲み明かした。 皆酔いつぶれ 私も夜中に目がさめた。すると寝床の中で泣いている者がいる。「お母さん。」そう言って。いくら一人前の搭乗員といっても、まだ二十才前の少年である。昼間は 一番張り切っていた彼が泣いている。 私も泣き出した。それにつられて いつの間にか皆泣いている。 翌朝、昨夜の泣いた事は 誰一人口にはしなかった。いかに立派に自爆出来るか、その訓練に夢中である。食事及び種々の待遇が非常に良くなった。誰かが冗談に「俺達はもう神様だからな」なんて言ったが誰も笑わなかった。また夜になると酒盛りが始まる、また酔いつぶれて寝てしまうが夜中に泣いている者がいる。毎日それの連続であった。 (岩沢辰雄さん手記 「海軍航空隊予科練秘話」より) |
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特攻の際、通信は原則禁じられていました。 唯一、許されたのはいよいよ特攻としてその責務を果たす時で、当時はモールス信号だったので信号は「ピーーーーーーー」、押しっぱなしの状態で、その信号が消えた瞬間が激突した時刻として記録されたそうです。 それを確認された機はごく僅かで、突入する前に多くの機が撃墜されたのが現実だったようです。(2012年平和ウォークにて) |
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宇佐航空隊で編成された特別攻撃隊の出撃は、4/6、4/12、 4/16、4/28、5/4 の5回。 81機、特攻隊員154名の尊い命が失われました。写真は八幡護皇隊の特攻隊員 宇佐航空隊では、「宇佐八幡」にちなんで、隊名に「八幡」の文字がつけられました。「八幡護皇隊」・「八幡神忠隊」・「八幡振武隊」等 宇佐海軍航空隊は1地方基地の戦死者としては多いそうです。これは特攻機として使用された艦上攻撃機もしくは爆撃機には乗組員3名が乗り込んだため犠牲者の数が増えました。2名の時は60kgの砂袋を搭載しバランスを保ちました。 |
是恒 義人 画 |
アメリカ軍は、命を捨て 飛行機ごと攻撃してくる特攻機に驚きました。やがて その恐るべき特攻機の基地は、当然のごとく、アメリカの飛行機の攻撃目標となりました。 宇佐航空隊のある 柳ヶ浦とその周辺では、昭和20年 3月18日の初空襲から、日本が降伏する 8月まで、空襲の恐怖にさらされることになったのです。 左の絵は昭和20年 8月 8日 畑田の空襲の様子 |
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