<<長洲にまつわること>> | |
航空隊周辺だけでなくても宇佐市内にはまだまだ戦争の跡が残っています。 長洲小学校には油の代替用として松ヤニを採取した跡(自分たちが小学校の頃は採取用の傷跡が残る松ばかりでしたが、今は1本しか残っていません。)、戦没者の合同墓地、宮熊の海岸には爆撃練習用の標的など、探せばもっと残っているのかもしれませんが、航空隊周辺以外で自分で歩いて探した「跡」をまとめました。 航空隊に近いばかりに、空襲の被害を多く受けてしまった「三州国民学校」(今の柳ヶ浦小学校)。 4月21日の空襲では、講堂は薪のように吹き飛ばさ れ、北校舎も半分だけになり、とても使える状態ではなくなってしまったそ うです。 当時「長洲国民学校」と呼ばれていた 私たちの長洲小学校でも、全く被害 がなかったわけではありません。4月21日の空襲の翌日、学校に訪れた先生 が見たものは、広い運動場いっぱいに散らばっていた石ころと土のかたまり。 驚いたことに 学校の東にある畑との境には、直径10メートル 深さ5メー トルほどの大きな穴が開いていたそうです。そして そこから100メートル以上 離れた所に、直径が約40センチメートルの大きな石が 飛ばされてきていま した。他にも、屋根やガラスが壊されていたそうです。 小松橋の真ん中で 飛行機から狙い撃ちされ、命からがら柳ヶ浦側の防空壕に逃げ込んで助かったという人の話もあります。 |
【慰靈塔】 | |
<戦争に行って亡くなった方をまつっている共同墓地> (長洲小学校の隣にある「忠霊塔」と呼んでいる所) それぞれの墓標には、「名前とその人 が亡くなった時の 年齢と場所、階級など」が刻まれて います。 墓石の年齢を見ると、 若い人ばかりです。多くの方が南方(東南アジア方面)で戦死されていることがわかりました。 ※ 以前、長洲小学校の生徒がこれらのことを調べて、平和集会で 発表してくれたことがあります。 |
【松脂(まつやに)を採った松の木】 | |
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戦争が激しくなると 輸入に頼っていた鉄や石油など、あらゆる物資が不足しました。松の木に傷を付けると出てくる 黄色いネバネバした樹液、 松脂(松ヤニ)
もその一つです。 松脂(松ヤニ)は、昭和12年の<支那事変>以降、 主な輸入国だった中国やアメリカなどから 輸入出来なくなりました。そこで、昭和13年より日本国内での増産が奨励され、あらゆる所で採取されるようになりました。 |
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【松脂の用途】 松脂は精製されて、紙を作る時のにじみ止めの薬品(サイズ剤)として使われたり、印刷のインクや塗料、接着剤、合成ゴム用の乳化剤にも使われます。 他にも、洗剤や化粧品、野球用のロジンバックなど、いろいろな用途があります。 船の甲板の滑り止めや防水用、また、肩こり、筋肉痛、あかぎれ、打撲傷の薬としても利用されていたようです。 |
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長洲小学校には、このような松の木が 体育館の周りにもありましたが、枯れてしまって、現在残っているのは、本館裏のこの1本だけです。 以前、【松根油(しょうこんゆ)を採った松の木】と記載しておりましたが、当時、飛行機の燃料の代わりにしようとしていた【松根油】とは文字通り、【松の根】を掘り起こして作った【油】のこと。訂正させていただきました。 宇佐市の隣の豊後高田市の真玉町にも、【松根油】を作る釜があったようで、『目で見る 中津・宇佐・豊後高田の100年』という本に、昭和18年頃に写された写真が掲載されています。 |
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【松根油について】 | ||
1944年、ドイツで、「松の木を使った航空燃料」が製造されたという情報を入手した海軍は、戦局の悪化により南方からの原油の輸送が難しくなったため、ガソリンの代用品として、「松の木を使った航空燃料」を製造することを検討しました。 日本では戦前より、専門の松根油製造業があり、松根油製造の技術があったため、松根油を原料に航空燃料をつくることとなり、1945年急遽その規模を拡大しました。 <松根油の当時の製法> 原料となる松の根を掘り起こし、チップにして釜に入れ、始めは時間をかけゆっくりと焚きます。最終的に300度まで加熱して、得られた揮発成分を冷却して液化させ、松根粗油(松根原油)をつくります。(この時、大量の木酢液やタールが発生しますが、比重差を用いて分離します。←これらも有効利用) この松根粗油をさらに精製すると、航空機の燃料となる「松根油」を得ることができます。 ※ 各地に小型の乾溜施設(松根釜)をつくり、全国の国民を動員して松の切り株を集めたおかげで、松根粗油の量は急速に増えました。しかし、松根粗油から製造される航空燃料は開発途中で、エンジンのテスト等の調整が必要でしたが、研究段階のまま終戦を迎えました。(松根油を航空機に使用したという公式の記録は残っていないそうです。) 海軍の当初計画でも、テストおよび調整が完了し 実戦に投入されるのは、1945年(昭和20年)後半の予定でした。 ※同じ頃「松根油」と同じく、サツマイモを主原料とした「アルコール燃料」が開発されていました。 海軍が訓練用で使用したといわれる「あ号燃料」は、澱粉などから作ったアルコールを普通のガソリンに混ぜたもの。 この「あ号燃料」は「訓練用」として、練習航空隊の練習機に 使われていました。しかし、エンジントラブルが多く、命に関わる事故につながりかねないため、パイロットからの評判はすこぶる悪かったようです。 ※ 小説『雲の墓標』にも、宇佐海軍航空隊で使われた「亜号燃料」のことが書いてありますが、やはりエンジントラブルが多発していたようです。 |
【海軍桟橋】 |
長洲の駅館川河口の堤防の桟橋は、宇佐海軍航空隊のカッター (軍艦と行き来する小さな船)を動かす練習に、使われていたものです。 この東側にはカッターを入れていた小さな港がありましたが、近年埋め立てられました |
【標的跡】 | |
宇佐市宮熊の浜辺より沖に向かって 約1.3qの所に、このコンクリート製 の標的があります。 飛行機が上空から急降下しながら、爆弾をうまくこの的に落とせるように練習しました。 潮が引いている時に、近くに行ってみましたが、思った以上に大きい建造物でした。(高さは、4〜5メートルあると思われます。) 円柱形の標的を中心にして、その周りに6本 柱のような形のものがあり、そのうちの3本が倒れていました。 中心にある円柱の大きさは軍艦の煙突、まわりの柱の幅は軍艦の幅を想定して設置したそうです。 中央の標的に命中すれば酒3升、6本の柱の中に入れば酒1升もらえたという話があるそうです。 ※近くまで行くのに堤防から20分程度かかります。途中海水につかりそうな場所もあるので長靴を履いた方が良いでしょう。 |
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【防空壕】 | |
※現在は入り口全体が塞がれています |
< 駅館川東岸の防空壕について > 駅館川の東側に面した崖の下には、昭和20年(1945年)2〜3月頃から、迷路のような横穴壕が 河口部から約6qに渡って掘られました。 入口は目立たない藪の中にあり、中はいくつもの部屋に分かれるなど複雑な構造になっています。それぞれの目的によって、「軍司令部用」・「弾薬庫用」・「民間用」の防空壕がありました。 4月21日の空襲によって 航空隊が大きな被害を受けると、今の駅館大橋付近の防空壕に、司令部、医務部、通信といった基地の中枢部(中心部・主なところ)が、移されました。 壕の内部は換気が悪く、ここに勤務していた人達は、1時間に2〜3回は外に出て、深呼吸をする必要があったと言われています。内部は全面に板が張られ、崩れないように工夫がされていたそうですが、8月15日の敗戦と同時に内部に火が放たれ、全てが燃やされてしまったそうです。 注意: 鹿児島県で防空壕で遊んでいた4名の中学生が酸素不足で亡くなりました。決して防空壕の中に入ってはいけません。 |