4.今でも残る戦争の跡−2
《 長洲小学校にきて、最後のピアノを弾いていった特攻隊の兵隊さんのお話 》
 昭和20年4月の桜の咲く頃、一人の宇佐航空隊の兵隊さんが、「ピアノを弾かせて下さい。」と長洲国民学校を訪ねてきました。そして、先生の前で「トロイメライ」や「海ゆかば」など、たくさんの曲を譜面も見ずに、とても上手に弾かれたそうです。

 兵隊さんは昔よく家族みんなで、楽器を演奏したり、歌を歌ったりした思い出 を、なつかしそうに話してくれたということです。出撃する前に、どうしても もう一度 大好きなピアノを弾きたかったらしい のです。
 思い残すことのないように・・・

 その後 この特攻隊員さんは、南の空に向かって飛び立っていきました。


 「自分たちが住む地域をよりよく知り、そして見つめ直そう」という活動をしている<宇佐市塾>の人たちが、平成元年(1989年)「忘れ去られようとしている、宇佐の戦争のことを後世に伝えていきたい」という思いから「宇佐海軍航空隊」について調査し、『宇佐航空隊の世界』という本を出版しました。

 そして、その本の中の手記にある 「トロイメライを弾いた特攻隊員さん」のお話をもとにしたお芝居が作られ、平成4年(1992年)の11月、ウサノピアで上演されることとなりました。また同じ頃、長洲小学校でピアノをひいた特攻隊員さんの消息を調べるために載せられた新聞記事から、その人が野村茂さんだということがわかりました。

 翌年の3月には、90歳を越えた 野村さんのお母さんや茂さんの兄弟が、東京の三鷹市より はるばる長洲小学校を訪れたそうです。



≪ 映画「月光の夏」について ≫

 二人の特攻隊員が、小学校で ピアノを弾いたという実話を元にして作られた「月光の夏」という映画があります。「この世の別れ」とベートベンのピアノソナタ「月光」を弾いて、沖縄の海に出撃していった特攻隊員。

 佐賀県の鳥栖市での出来事。 長洲小学校で シューマンの「トロイメライ」を弾いていった 野村茂さんと同じ、太平洋戦争末期の 昭和20年のお話です。


<「トロイメライ」について>
 「トロイメライ」は、ドイツ語で「夢みごこち」といった意味。
 ドイツの作曲家、ローベルト・シューマン(1810〜1856)が 28才の時 に〈子どもの頃を思い出して作った曲〉だと言われています。(「子供の情景」という13曲からできている曲集の 7番目の曲。)
 シューマンの全作品の中でも最も親しまれている傑作と評価は高く、 どこか平和を感じさせる、穏やかなとても美しいメロディです。

<「海ゆかば」について>

  「海ゆかば」の歌は、太平洋戦争当時よく歌われていた歌で、原爆手記の中にも、この歌を歌いながら死んでいったというお話が数多くあります。

この歌はもともと 日本の古代の歌集『万葉集』卷18の大伴家持の長歌に出て来る一節で、昭和12年に東京音楽学校教授の信時潔氏が曲をつけました。
 太平洋戦争の頃、「国民合唱」と称して「戦意高揚(戦おうという気持ちを高める)」のため、広く歌われるようになっ たそうです。

 「海ゆかば」

  海 ゆかば 水漬(みづ)く 屍
  山 ゆかば 草むす 屍
  大君の 辺にこそ 死なめ
  かえりみはせじ



  (左の歌詞の意味)
 海をゆくなら 水につかる屍(死体)となろう
 山をゆくなら 草の生える屍(死体)となろう
   天皇のために この命を投げ出しても
   後悔はしないのだ
 
 この歌は本来は「この自分の命など顧みはしない」というきっぱりとした決意を強調し、力強く歌われていました。しかし戦局の悪化 により、「海ゆかば」に合わせて黙祷する(声を出さずに祈る)ことが多 くなり、「鎮魂歌(死んだ人の魂を慰める歌、レクイエム)」として も歌われるようになりました。

 戦後この曲は 振り向かれることなく、中には戦争中の思い出と結びつくからと拒否反応を示す人もいますが、その旋律(メロディ)は美しく、この歌を歌いながら 死んでいった人のことを考えると、とてもいたたまれない気持ちになります。



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