4.今でも残る戦争の跡−2   

 高速道路「大分道」を鳥栖ジャンクション方面に向かっていると「大刀洗PA」があり、その名前は以前から印象深く眺めていましたが、戦争に関係あるとは全く知らず通過していました。ある日、嫁さんが大刀洗に「平和記念館」があるので見に行きたい、とのオファーがあったので、福岡方面に出掛ける際に立ち寄ることにしました。

 記念館を見学していると「語りの部屋」で、毎日2回ボランティア活動で戦争に関連する本を元にした「朗読」が始まるとのアナウンスがあり、実際に拝聴しましたし、毎日実施していることには感心するばかりです。また、オリジナルの映像を作成、放映するなど、記念館の設置にあたり随分企画を練られたか伺い知ることができました。

 当館には戦闘機開発の歴史や零戦や九七式戦闘機等も展示され、まずは来て貰うこと、そして館内で色々な資料等を見て貰い、理解を深めて貰うという、いわば「掴み」も必要ということですが、男子としてはついついこちらに目が行きがちです。ついでながら、天井にはB29の大きさが比較できるようパイプで作成したものが掛けられていました。

 嫁さんと1階のフロアに描かれている大刀洗周辺の航空写真に描かれた飛行場や戦跡等を見ていると、当館の方から声を掛けられ、「大分から来た」旨を話すと、宇佐市の掩体壕などの話に加えて、大刀洗飛行場を爆撃したB29が日本の攻撃により竹田市内墜落した話を伺いました。(自分は、祖母山系に戦後墜落したB29の話と勘違い・・・)
 後に、この件を調べると、墜落したB29からパラシュートで脱出したものの、3人は墜落による死亡もしくは殺害、8人が旧九州帝国大学で生体解剖され、機長1人がアメリカに送還されたとあり、戦時中の「狂気」を改めて知ることになりました。
 この事件を悼み墜落地点の近くに「殉空之碑」が建立され、毎年B29が墜落した5月5日に追悼祭が営まれています。

 今回は記念館のみの見学で周辺の戦跡を見る余裕はありませんでしたが、ここが陸軍航空隊の教育基地であり、この分隊として1942年に当初は訓練用として知覧飛行場が開設されていたことを後に知覧で知りました。
 (2011.2.9訪問)
 
【大刀洗飛行場の主な歴史】 〜大刀洗平和記念館 公式HPより抜粋〜
 
西暦  (和暦) 内容
1916 (大正 5年) 5月 陸軍は三輪村、大刀洗村、馬田村に飛行場用地買収を申し入れる
1919 (大正 8年) 10月  大刀洗飛行場完成
1939 (昭和14年) 12月 第五航空教育隊開隊(飛行場北西側、日本最大の航空教育隊)
1940 (昭和15年) 10月 大刀洗陸軍飛行学校開校(飛行第四戦隊転出跡地使用で研修期間は2年)
 ※1942(昭和17年) 知覧飛行場が大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所として運用開始
 



 (1)
 福岡県 筑前町立「大刀洗平和記念館」入口です。 




 (2)
 実物大の零戦。




 (3)
 天井に掛けられたB29の一部(緑の点線)




 (4)
 松根油増産のポスター。




 (5)
 知覧特攻平和記念館入口前に設置されていました。




<九大生体解剖事件>「戦争は人を狂わす」最後の目撃者語る
  毎日新聞 2012(平成24)年8月15日(水)21時2分配信
 1945年5月、大分、熊本両県境に墜落したB29搭乗の米兵8人が次々と旧九州帝国大(現九州大)医学部に運ばれ、やがて死亡した。連合国軍総司令部(GHQ)が「類例ない野蛮さ」と表現した「九大生体解剖事件」。医学生として立ち会った福岡市の医師、東野利夫さん(86、福岡市中央区草香江)は何を目撃し、何を思ったのか。「戦争は人を狂わせる。悲惨と愚劣しか残らない」。67年後の今、東野さんは改めて平和の尊さを訴える。

 東野さんは1945年、同大医学部に入学。約1カ月後、配属された解剖学教室で、事件は起きた。「手術する場所を貸してほしい」。外科医から解剖学教室の教授に連絡があった。数日後、米兵の捕虜2人が運ばれてきた。麻酔がかけられ、肺の手術が始まった。透明の液体が体内に入れられたが、その液体が代用血液として試された海水だったことは後に知った。

 実験手術だった。軍の立ち会いの下、4回にわたって8人に上り、うち2回を目撃。無傷の捕虜にも施され、終わると血液は抜かれ、息絶えた。「ただ不思議で怖くて、緊張して体が固まった」。

 東野さんはGHQの調べを受け、裁判の証言台にも立った。主導していたとされる軍医は空襲で死亡、執刀した外科医も拘置所で自殺した。

 「軍人と医者が残虐非道なことをしたが、これは事件の本質ではない」。東野さんは独自に調査中、気が付いた。「当時の心理状態は平和な時代には考えられないほど、おかしな状態だった」。戦争末期の空気と混乱は医者をも狂わせた。

 事件の目撃者が東野さんだけとなり、講演にも力を入れたが、体力の衰えで数年前から休止した。時代は移りゆくが、平和への思い、願いに変わりはない。「非戦を誓った憲法9条は必ず守ること。そして捕虜に対し学内の医師がメスを持ったという事実を正面から受け止め、母校の敷地に8人の慰霊碑を造ってほしい」【金秀蓮】

【ことば】九大生体解剖事件
 1945年5〜6月、墜落したB29に乗っていた米軍捕虜計8人が、旧九州帝国大医学部で実験手術を受け死亡した。西部軍司令部は8人について、広島へ移送後に被爆し死亡したとしたが、GHQの調査などで発覚。計28人が起訴され、5人の絞首刑を含む計23人が有罪判決を受けた。


<<HOME    <BACK  NEXT>>