稲童掩体壕(福岡県行橋市)  
 午前中、東九州自動車道開通記念マラソンに参加した後、帰る車中で嫁さんが受付で頂いたパンフレットを見ながら、「掩体壕がある! 帰る道すがらだから連れて行け。」との仰せ。ゆうたろう引き連れての応援団に抵抗するわけも出来ず、パンフレットの地図に従って掩体壕に向かいました。

 ここは、現在の航空自衛隊築城基地の場所に、昭和14年から訓練用として飛行場の建設が開始され、実際の利用は昭和18年6月からで、宇佐海軍航空隊より数年ほど遅い運用開始です。しかしながら戦局が厳しくなると宇佐海軍航空隊と同様にここも特攻の基地として利用され、同じく昭和20年3月18〜21日、8月7日に空襲を受けるなど、その時の傷跡が基地周辺の神社や民家の塀にも刻まれていました。宇佐海軍航空隊と違うのは戦後も自衛隊の基地として利用されていることです。

 築城基地の北西側に位置する稲童(いなどう)地区には掩体壕、司令部地下壕などの跡が現存しており、そのうちの一つ、双発の爆撃機を守るために建設された「稲童1号掩体壕」周辺は綺麗に整備されていました。すぐ側の駐車場には周辺の様子を示した地図と遺跡の写真、掩体壕の前には掩体壕のデータや築城基地の歴史の説明がありました。

 その他にも、戦局が厳しくなってから造られた地下通信司令部、機銃掃射の弾痕が残る煉瓦塀や空襲の跡が残る神社を散策しました。掩体壕が多く造られた稲童地区は工業団地として整備されつつあり、次第に戦争遺跡も消滅する可能性も高く、つい最近なのか、もう70年なのか、当時を生で知る方々が年を重ね、本当の記憶による話を聞けなくなりつつある昨今、少しでも残しておいて欲しい「遺産」です。
 (2014.11.23訪問)

 ※参考にしたHP 行橋市文化振興公社 「市指定史跡 稲童1号掩体壕
 築城飛行場の主な歴史 
西 暦  (和暦)   内   容
1939 (昭和14年)12月 築城飛行場建設が開始される。
1943 (昭和18年) 6月 宮崎県富島町(現・日向市)から築城へ海軍航空隊が移転。
1945 (昭和20年) 3月18日 九州沖航空戦により米軍機による築城基地と周辺地域への銃撃戦。
1945 (昭和20年) 8月 7日 築城基地と周辺地域が米軍機の大規模な空襲を受けて壊滅的な状態となる

築城海軍航空隊について(以下、駐車場の説明看板より)

 「築城海軍航空隊」は昭和17年10月に宮崎県富島町(現・日向市)に練習航空隊として開隊し、昭和18年6月に築城に移転しました。米軍の空襲が激化した太平洋戦争末期には、神風特別攻撃隊(特攻隊)も出撃しました。当時の滑走路は長さ1800m、幅50m、飛行場面積は145万uの規模でした。現在、飛行場は、行橋市、築上町にまたがり「航空自衛隊築城基地」として利用されています。
 太平証戦争末期、空襲の被害を避けるため、築城飛行場の周辺には様々な施設が分散配置されました。
 築城基地北部に位置する稲童地区には屋根のある「有蓋掩体壕」が7基前後、「コ」字状の土塁で飛行機を囲んだ屋根の無い「無蓋掩体壕」が、13前後つくられました。掩体壕は基地の北部からのびる誘導路(飛行場から飛行機を退散させるために造成された道路)でつながっていました。



稲童1壕掩体壕付近にある駐車場の看板を撮影



 (1)
 「稲童1号掩体壕」


以下、掩体壕前の看板に記載されていた内容です

市指定史跡 稲童1号掩体壕

稲童1号掩体壕の概要
  所在地  福岡県行橋市大字稲童
  規 模  盛土幅 42.0m  盛土高 8.5m
        奥行き 23.5m
        入口幅 26.8m  入口高 5.5m
  構 造  鉄筋コンクリート造
  製造年  昭和19年(1944)8月頃

 掩体壕は軍用機を敵の空襲から守るために造られた格納庫です。太平洋戦争当時の築城海軍航空隊の施設で、現在、稲童1号掩体壕を含め数基が残っています。
 稲童1号掩体壕は、夜間戦闘機「月光」、陸上爆撃機「銀河」、「一式陸上攻撃機」など双発機を格納するために作られた大規模な掩体壕です。壕内部の壁面には、コンクリート打設時に使用した板材や、その痕跡、丘陵地帯を掘り下げた土の跡形が明瞭に残り、造築工法がうかがえます。築造には兵士、朝鮮人労働者、地域住民、地元学生などが動員されています。こうした大型の掩体壕のほかに零戦などを格納する小型の掩体壕もありました。稲童地区は、飛行場の北側に位置し、掩体壕など多くの軍事施設があったことからしばしば空襲を受けました。安浦神社など稲童地区の随所に今も残る機銃掃射の弾痕は空襲の被害が激しかったことを物語っています。
 この掩体壕の壁面や周辺にも米軍機の機関銃の弾痕や、投下された爆弾の跡などが残っています。昭和20年(1945)8月7日の空襲ではここに格納されていた夜間戦闘機「月光」が炎上しました。
 稲童1号掩体壕は、戦争と地域の歴史を後世に伝える貴重な史跡であることから、平成14年(2002)12月2日に市の文化財に指定されました。平成15年(2003)より、発掘調査や補修工事などを行い史跡公園として整備しました。



 (2)
 当時の航空写真(昭和22年米軍撮影)。これも看板を撮影。





 (3)
 グーグルからほぼ同じ位置で切り出してみました。滑走路や基地の施設の位置などはほとんど同じでした。

 (4)
 掩体壕の内部。




 (5)
 上から撮影。





 (6)
 地下通信司令部壕の入口。高さは3m程度あります。





 (7)
 反対側から。残念ながら中には入ることができません。

 (8)
 一応、網の外から階段だけでも撮影。

 (7)
 説明看板。撮影したのは看板右側の入口と思います。




 (8)
 稲童地区に残る弾痕。




 (9)
 正面から撮影。

 (10)
 空襲の跡が残る神社の石柱。





 (11)
 同左。

 (12)
 狛犬の後ろ足も被害を受けその後補修されたそうです。




安浦神社周辺の戦争遺跡

 太平洋戦争末期、米軍の空襲を避けるため、築城飛行場(現・航空自衛隊築城基地)周辺に軍事施設が分散配置されました。
 築城飛行場北側の松原地区から稲童地区では、昭和19年(1944)8月頃から林野が切り開かれて、飛行場から航空機を待避させるための誘導路や航空機を隠し喰う住から守る掩体壕、地下通信司令部壕が造られました。稲童地区はこうした軍事施設があったため、昭和20年(1945)3月頃から8月の終戦まで、幾度も空襲を受けました。

 3月18日、7月25日、8月7日の空襲は特に激しく、築城飛行場や周辺地域で多数の死傷者や家屋の被害がでました。安浦神社も被弾し、建物などはかろうじて残りましたが、爆風で鎮守の森が焼けてしまいました。神社拝殿の柱、境内の石造物(鳥居、灯籠、狛犬など)に弾痕が残っています。安浦神社以外にも稲童地区集落内の煉瓦塀、墓地などには、被弾した跡が多数残っており、これらが空襲の激しさを伝えています。

グーグルのストリートビューより




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