殉空の碑(竹田市)
 山の帰りに立ち寄ってみようと、思いつつ何年にもなります。
 きっかけは「大刀洗平和記念館」で、資料館の方からB29の爆撃を受けた大刀洗飛行場から飛び立った戦闘機に体当たりされB29が、竹田市の山中に墜落した事件を聞いたことでした。

 自分は、当初祖母山系親父山にB29が墜落した記念碑がありこれと勘違いしていて、後で確認すると、とんでもない事件に発展していたとは・・・そのきっかけとなった「現場」です。

 体当たりされたB29は墜落する途中でパラシュートで脱出した搭乗員は、熊本県小国町から大分県竹田市にかけて落下しました。

 事件は、ここから始まります。着地した搭乗員は住民のリンチを恐れて自殺するもの、実際にリンチで殺傷された兵士、リンチされそうになるも地元医師の説得で助かった方・・・
 でも、助けられた命が同じ医師である軍医の手により生体実験で落命するという皮肉は、戦時下の不条理。

 敵味方を超越し双方を痛む「殉空の碑」は地元有志によって建立され、毎年B29が墜落した5月5日に慰霊祭が行われています。その慰霊祭も高齢化により開催が危ぶまれています。

 一方、九大の生体実験の現場を知る福岡市在住の東野医師は、実験が行われた九州大学に生体実験に関する資料を展示を依頼するも、僅かなパネルの展示だけになり、自身の病院(福岡市)で展示を行いました(2015年)。

 戦況が悪化し、血液が不足したため塩水を血液の代用に出来ないか、を目的にした生体実験が軍医らにより実行され、九州大学の組織的関与は無かったとはいえ、実行されたのはまさしく九州大学であり、竹田市ではない。

 むしろ、竹田市は血気にはやる住民を説得した地元の医師により命を救われた場所です。
 できれば、九州大学に東野医師が収集した貴重な資料を展示して欲しかった・・・

 前置きが長くなりました。
 「殉空の碑」は、竹田市の国道57号から国道442号を久住方面に進むこと2.7kmの場所に「殉空の碑」の看板があり、ここを右折。主な、交差点には看板があるので、間違うことは無いと思います。進むこと2.4kmほど、殉空の碑の入口の看板があり、ここからは道が狭いので、歩いた方が無難です。殉空の碑まで5分程です。

 殉空の碑には事件の犠牲になられたアメリカ人兵士、大刀洗飛行場から飛び立ちB29の体当たりした飛行士など敵味方関係なく犠牲となった方々の氏名が記されています。

 そして、その裏には東野医師による碑文が刻まれています。わずか500文字足らず。事件の真相を描いた「汚名」に馳せた東野医師の思いを込めた文字を読み、「汚名」を思い起こすと、こみあげてくるものがあります。 やっぱり、青空の下で見上げて良かった。

 もっと、広い場所にあるのかと思いきや、山の中の道路の脇に立っている、といった印象です。まずは合掌。
 近くには、B29が激突して凹んだ場所がわかるようになってました。

 あんな有名な事件の発端になった場所のに・・・細菌兵器を開発していた731部隊が人間を「丸太」と称し、実験をしたのと同レベルの狂気を感じさせる事件なのに・・・というのが偽らざる印象です。

 九州大学が東野医師の資料を受け入れないなら、竹田市で引き取り、かの場所に資料館を建て、展示できないのか、などと勝手に想像してしまいます。

 今回のアップを機会に改めて、東野医師が執筆した「汚名」を読み、恩師を言葉で庇いたいという感情を抑え、関わった医師や軍人の証言を客観的に取り上げることで、この事件に関わった人物像、事件の本質が浮き彫りにされるのを感じました。

    ※写真は2017年8月と2018年7月に撮影しました。天気が良いのが2018年です。




【殉空の碑・碑文】

 昭和二十五年五月当時日本は敗色濃厚な大東亜戦争末期の極めて悲惨な戦況下にあった。国土は連日B29に焼かれ最後の砦の沖縄戦も絶望状態にあり一億国民は悲壮な決意をもって本土決戦を迎えねばならぬ運命にあった。

 五月五日快晴午前八時すぎ久留米近郊の大刀洗飛行場を爆撃しその帰途についたB29の編隊に対し日本戦闘機これを追撃、熊本県阿蘇郡より大分県直入郡(当地方)上空において壮烈な空中戦を演じ日本戦闘機はB29に体当たりを敢行、B29はたちまち火を噴きこの地に激墜した。

 日本戦闘機も近くの宮城村芹川に墜落し海軍少年航空兵は母からの手紙を胸にしたまま死亡していた。既に落下傘で降下していたB29の搭乗員十二名中多数の者は狂乱怒号の村民により暴行殺傷され、その中八名は所謂九大生体解剖実験の犠牲となった。

 戦後三十三年たって当時を回想するにこれら犠牲者たちの姿が悪夢のように脳裏より去らず、ここに恩讐を越えて日米犠牲者たちの鎮魂供養の儀を行いご冥福を祈るとともに、かかる戦争の悲劇を二度と繰り返さぬための貴い教訓ともなればと念願しこの碑を建立する。

                     昭和五十二年五月五日 三十三回忌
                     建立者 工藤 文夫  七十八歳

                      文 東野 利夫
                        福岡県中央区草香江

                      協力者 折立老人クラブ、地元有志






 (1)地図「1.入口看板」
竹田市内から久住高原に向かう国道442号沿いです。




 (2)上記の看板の拡大。




 (3)途中、道沿いにも看板があります。




 (4)地図「2.入口」
看板が設置されていました。




 (5)上の入口を反対から見たところ。
コンクリ舗装ですが狭いので歩いた方が無難です。
駐車場は無いので、路上駐車。この辺りは少し広くなってます。




 (6)地図「3.殉空の碑」
矢印の方向から。




 (7)殉空の碑




 (8)碑の下には、後に犠牲となった兵士を含め名前が刻まれています。
B29に体当たりした飛行士の名前、出身地、年齢が記されています。




 (9)B29の墜落によってできた窪地。




 (10)説明が書かれた石板




 (11)







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