青山 佐田城跡 309m

 大分市から10号線の裏道として利用している時に、例のごとく白い標柱が目に留まりました。また、他のHPでも「青山」の文字を目にしたことがあったので、ここかぁ、と思い足を運んでみました。
 登山口は安心院町佐田小学校前で看板もあり判りやすく、登山道もはっきり、登山口からの距離も手書きですが100m毎に掲示されているので歩いていて安心感があります。
 登山道は杉林、竹林を抜け雑木林へと進みます。道に険しい場所は無く山歩きと言うより、散策に近いものがあります。山頂までの距離は看板によると1350mですが、山頂手前になると「山頂域」といった印象で、良く見ると土塁や石垣らしい遺構も観察され、城があったことが伺えます。山頂周辺には「山頂」を示す標柱らしいものは無く、少し大きめの岩があり、ここが一番高いように感じました。
 山頂の岩から少し奥に進むと北東側に展望が開ける場所があり、少人数でくつろぐにはちょうどうど良い場所です。本日は簡単軽装で普通の靴で少し早足で登ったこともあり、山頂まで35分程度、普通の感じで歩いても山頂まで40分程でしょう。

 全所要時間 65分程度(休憩を除く) 登った高さ 200m  歩いた距離 2.9km

ア  ク  セ  ス
・米神山登山口を安心院方面に進み、信号機を右折、300m程で左折し900m程で右に小学校が見えるとその正面に登山口の標柱が立っています 

よっちゃんの独断と偏見きわまるルート評価
総合評価 登山道 標識 山道展望 山頂
展望
自然 被写体 体力 携帯 GPS 駐車場 ロープ
テープ
3.5 2.5 不要
    
枠の中の数値は登山口から標高を示した距離の看板の位置です。
画像(8)を参考にしてください。

本日のタイムテーブル(移動時間のみ)
出発地点    到着地点 所要時間
(分)
登山口 500m 10
500m 900m 10
900m 山頂 15
   登った高さ  200m位
   歩いた距離  2.9km 


(1)
 登山口の様子。○の位置に標柱が立っています。駐車スペースはとりあえず5台分ほどあります。



 (2)
 (1)の○の中の拡大図。道の色が変わった辺りに右側に青山に登る階段があります。

 

(3)
 ○の中が車。階段を少し上がった所から振り向いたところ


  (4)
 登山口にも看板があります。




 (5)
 訪れる人が多いのか、道は明瞭で歩きやすいです。



 (6)
 ときおり、杉林や竹林を通過しますが、概ね雑木林の下の登山道です。


 (7)
  同じく、登山道。夏になると草に覆われるかも知れませんがそれでも道ははっきりしているでしょう。



 (8)
 赤いテープに大きい字で登山口からの距離を100m毎に書いています。山頂は1350mです。

 (9)
 土塁や石垣の跡があり、城があったらしいことがわかります。



 (10)
 かなり山頂に近づき、フラットになったところ

 (11)
 このような看板がありますが、実際どこが山頂かよくわかりません。



 (12)
 (11)の位置から少し奥に行くと高さが1.5m程の岩がありここが一番高いような気がします。


 (13)
 (12)の少し奥に下った所に見晴らしの良い場所があります。


 (14)
 同じく、山頂近くに由布岳方面が良く見える場所があります。



 たまたま見掛けたキンラン


【登山口にある看板の説明の内容】 ※実際は縦書きです

  佐田城(別名青山城)と佐田氏

 標高約300mの青山を主体として、そこから派生する尾根や尾根先端部に土塁・空堀・曲輪等の城郭遺構が東西1000m・南北600mにわたり、良好に残っています。
 応永6年(1399)佐田親景(ちかかげ)が城井(きい)谷菅迫(現福岡県みやこ町犀川城井)から佐田青山に移って築城したといわれています。
 佐田氏は、有力な鎌倉御家人である宇都宮系城井氏の分家です。九州探題が九州に下向する場合は必ず宇都宮氏に強力を要請しています。
 この地は豊前国と豊後国の境界に位置しているため、大内・大友両氏の抗争の舞台となっています。佐田氏は、大内氏支配の時には宇佐郡代に任命されています。天正15年(1587)黒田孝高(よしたか)(如水)が豊前6郡を支配すると、大友氏を頼って豊後へ赴いています。しかし、文禄2年(1593)に大友氏が豊後国から去るにあたり佐田に戻り、元和元年(1615)には細川氏の家臣となり、熊本転封に同行しています。

              宇佐市教育委員会
              佐田地区の歴史を考える会