天神原山と女郎の墓、木浦鉱山跡を巡る

 午前中、夏木山に登りこのまま帰るのももったいない、と思いながら参考書をあれこれ開くと近くに天神原山があり往復1時間で登れそうなので足を運んでみました。夏木山の林道を一度下って、木浦方面に向かいます。大切峠手前で「女郎の墓」の看板があり車道を登っていきます(車で・・・)。分岐から1.2kmほどで天神原山の登山口で、登山口より300mほど手前に「女郎の墓」と説明書きがあります。林の中にある無縁仏の墓といった様相で、説明書きを読むと思わず合掌。お墓の写真を撮る気が起こりませんでした。(説明書きは下に掲載)

 登山口は行き止まりで、車数台を停めることが出来ます。登山道は、自然林の気持ちよい道で当日は曇りで少々鬱蒼とした印象を受けましたが、天気が良ければなかなか良い山ではないでしょうか。歩き始めて15分もすると地図の「・921」のピークを踏み右折するような感じで山頂を目指します。ここからは少し急登で、10分ほど登ると山頂に近づき南側が開けた場所があり、山頂はすぐ先です。したがって、山頂を踏んだ跡休憩は山頂そばの開けた場所が良いと思います。

 下りはイノシシのようにとはいきませんが、下っていったので山頂から登山口まで15分足らず・・・、普通に下っても20分程度です。本来、自然を楽しみながらのんびり登る山といった面持ちで、この辺りの山に登り時間に余裕があればお勧めします。

 下山後、木浦へ下る途中には「千人間府」の看板があり、この際だからと思い、ここにも立ち寄って見ました。登っていくと高さ4〜5m程度の坑道の入口があり、その手前に説明書きがります。中に入れるのであればもっと面白いとは思いますが、山の中にこのような坑道が残っていることや、木浦鉱山の様子を伺えること等、興味深い内容でした。
 そして、この木浦鉱山が天神原山周辺であったことなども含めると、この山の存在感が一層増してきました。

  登った高さ 200m位  歩いた距離 2.0km  時間 55分(休憩含)

 

出発地点 到着地点 所要時間(分)
2.登山口 3.山頂 25
3.山頂 2.登山口 15
    時間合計(休憩除) 40
    参考  休憩を含む所要時間  55

よっちゃんの独断と偏見きわまるルート評価
総合
評価
登山道 標識 山道
展望
山頂
展望
自然 被写体 体力 携帯 GPS 駐車場 ロープ 赤テープ
不要 不要

※それぞれの評価は低いですが、周辺の史跡、山の雰囲気を含めて総合評価「4」にしました。   


 (1)
 地図「1.入口」の場所です。藤河内から大切峠を経由して木浦へ向かう途中です。




 (2)
 画像(1)の○の中のUPです。

 (3)
 地図「2.登山口」。
 「女郎の墓」はこの300m手前で、舗装道路は今の所ここで行き止まりです。




 (4)
 登山道は広葉樹林帯の下で、天気の良い日は気持ちよい登山道と感じられました。

 (5)
 こんな感じでほぼ山頂まで続きます。




 (6)
 山頂は木々に囲まれていますが少し手前に見晴らしの良い場所があり概ね、南側を俯瞰することができます。
 

 (7)
 千人間府、坑道の入口。道路から5分ほど歩いたところにありました。「女郎の墓」の写真はあまりに悲哀に満ちていて撮る気が起こらなかったので下の説明文を一読してください。

 「千人間府」、「女郎の墓」の説明文はそれぞれの史跡に設置されていた原文そのまま、ただし本物は縦書きです。

木浦千人間府   町指定史跡 昭五三・八・一八指定
           大字木浦鉱山字大切
           三代 茂氏 所有

 千人間府とは木浦鉱山の大切坑のことで、木浦山で一番規模が大きく産出量も多かったことから付けられた総称である。
 木浦鉱山は鉱山の開発によって村が成立したのではなく、木浦内村の中に鉱山が発見されたために木浦内村には小庄屋、肝煎、村横目などの役人と、乙名、組頭、山目代、宗旨横目などの役人が別に置かれた特異な支配体系となっていた。

 木浦鉱山の開発起源については各種の説があるが、史実に表れるのは慶長三年(一六〇七)に鉛が産出されたことが記されている。また、江戸中期に記された鉱山開発のことを伝えた一子相伝書と言われる外財根元目録略記には「銀山の根元は豊後大野郡木浦山を始めとして・・・・」又「錫山の始めは豊後大野郡天神山を始めとして・・・」とある。
 開発当初は露天掘に近い方法で採掘されていた。江戸時代になると岡藩中川氏の支配となり、藩は木浦鉱山奉行、両山調役、見計役等を置き、吹上錫・鉛の検査又は木浦内村などで産出する椎茸、木炭の検査業務を兼職させていた。さらに、鉱山は農地が皆無であったので小野市組等から送られてくる米・大豆の管理、保管又運上金徴収の任に当たっていた。

 鉱山の経営方式は御手山方式、請山方式、直山方式が繰り返された。しかし、食糧の生産を伴わない鉱山では、米・大豆等の生活必需品の全てを藩よりの供給に頼らねばならなかったので、山師は山を見立てると開発にかかる一切の経費、いわゆる銀穀を藩から前借りし、生産された錫・鉛を藩の指定した商人に売却して前借を返済するという御手山方式がとられた。

 鉱山は藩にとっても有用金属入手の場であったが、経営は小規模で家内労働を機軸としていたので、山師が積もり積もった前借を産出した錫・鉛代で皆済した例は見当らない。むしろ山師が前借した銀穀を「捨り」(返済免除)又は「浮置年賦」(据置年払)の借置をとり、山師の経営を立ち直らせ生産の拡大を図った。
 ちなみに、宝暦二年(一七五二)から安永元年(一七七二)までの二〇年間の前借は、米六七〇〇石、大豆一二〇〇石、大麦一二〇石、銀一貫、銀札六貫であったが、藩はこれを返済免除にしている。
 前にも述べたが、小規模経営であるため山師数も元禄期(1688〜)が最も多く五〇人程度で、その後は三〇人前後の小規模経営であったと推測される。つまり、山師およびその家族労働を主として細々と続けられていたことがわかる。
 こうした木浦山の中で開発された松木平、米原、姥山、茸ヶ迫、天狗平、田近山、天神山、桜山、尾越などがあるが、中でも大霧嶽の大切坑は一番規模が大きく産出量は木浦鉱山全体で最大の鋪であった。

      宇目町教育委員会
 
木浦女郎の墓  町指定史跡 昭五三・八・一八指定
           大字木浦鉱山字大切
           宇目町所有

 バスの終点木浦鉱山から木浦〜藤河内線を三キロ余り、時間にして一五分ほどで標高七五〇メートルの大切峠につき、この峠から一キロほど下った所の雑木林の中に石塚が二〇基ばかり散見される、これが女郎の墓である。墓は川石の一つを真中に立て、一メートル四方を同じような川石で囲んだ集石墓である。現在確認さているのは一七基である。

 木浦山は鉱山の発達に伴い木浦内村より新しく成立した鉱山町である。ここは江戸時代中期に木浦町と呼ばれ、金具町、横町、梅木町、万屋町、船座町、仲町、上町、竹田町、長戸町、生木谷、下川、森下の一二に区分されている。
 人口が最も多い元禄一二年(一六九九)には木浦・尾平(緒方町)の両山で五六八人であった。木浦・尾平とも同じ位の規模であったので、木浦山は三〇〇人足らずであったと思われる。また、山師数は江戸時代を通じて三五人前後とあり、これから推測すると小規模経営で家族労働を主体としたものであったことがわかる。

 しかし、良鉱が発見されたとき、あるいは茸取りの時期には周辺の村々からの出稼ぎもあったと思われるので、こうした人の集まるときには、赤提灯や木賃宿が繁盛したであろうと思われる。こうした人の集まるところに「女郎」と呼ばれる人達がいたであろう。
 これらの人々には小規模鉱山ゆえに生活は苦しく、一般的にテレビや映画で見る女郎とはイメージがまったく違い、極めて貧しい人達であった。したがって死去した時は葬式や埋葬など論外で、このような雑木林の中にうち捨てられるか廃坑に捨てられるかであった。
 このように埋葬したところに申し訳程度に川石で簡単に墓碑らしきものを作っているものが多く、人間の末路としては極めて悲哀を感じるものがある。

      宇目町教育委員会